八二年の階級闘争とわれわれの課題

    労働運動研究19821月 No147

荒川 仁一

椎名  隆

柴山健太郎

長谷川 浩

一柳 茂次

松江  澄

山本 正美

遊上 孝一

司会 佐和慶太郎

 

 司会 きょうは「八二年の階級闘争とわれわれの課題」と題して、新年号のために所内討論会をひらきます。ご承知のように現在の状況は、行革、右寄り労戦統一、コンピュータ合理化問題など、労働運動にとってかならずしも香ばしくない状況にありますが、しかしこの時こそ本当の左翼がヘゲモニーを発揮する時期だと思います。

 それで、問題を三つに分け、第一部は労働運動の当面する問題点、第二部は分立する新旧左翼の問題点、これは共産党、社会党、その他左翼の各セクトをふくめて。第三部はわれわれのめざす社会主義の問題点について。第一部は長谷川浩君、第二部は遊上孝一君、第三部は松江澄君から問題を提起していただき、それにもとづいてみなさんの討論を展開していただきます。

第T部 当面する労働運動の問題点

 問題提起 長谷川 浩

 

労働運動の当面する焦点は右翼的再編の問題だ。いずれにしろ十二月十四日には統一準備会が発足する。

 いろいろ混乱はあったが、『基本構想』が一番重要な問題であったし、これからもそうだと言えよう。

 これは、さしあたっては総評に対して提起されたが、実際は日本の全労働者階級につきつけられた問題である。要するに「ストライキはやらない」 「賃上げは経済整合性の範囲内で」 「合理化・行政改革には協力する」ということで、 『基本構想』の表現からすれば、労働者の生活の向上は資本の高度成長で、はじめて実現された。だから労働者は資本の安定成長のために粉骨砕身しなければならないと言うことにつきる。

 この理念で労働運動を統一しようということは、実際の労働者の要求の統一にもとついて行動を統一し、戦線を統一するという、労働運動それ自体の統一の原則とは基本的に相反する。初めから一つの理念なるものをかかげ、それによる選別ないし分裂を前提にしている。分裂を挑発したものとさえ言える。

 「賃上げを自粛しろ」 「合理化に協力しろ」という『基本構想』が出されたということは、逆に、すべての労働者が共同して闘ってゆく統一目標がはっきりした、ということにもなる。 『基本構想』をめぐって、現時点での階級間の対立の焦点がどこにあるかが明確になった、という感もする。

 とはいえ、現実にこれを克服し、乗りこえるということは、今日の状況では並大抵のことではない。それぞれの産業・企業の条件で多くの困難があり、闘いの条件・戦術は異なるとしても、やはり、それと対決し克服しなければ労働運動の前進はない。したがって混乱はまだ続くだろうし、闘いはむしろこれからだと思う。

 もうひとつ大事なことは、 『基本構想』と関連して、社会党の『道』の再検討なども含めて、全体に右翼的再編成ないし中道路線指向のグループの基本的立論の基礎になっているものが、 「階級概念」の抹殺にあるということ。つまり労働者の頭から階級闘争という概念を取除いていこう、というのが基調になっていることだ。それによって、労働者の基本的な権利という問題を全部剥奪していこう、ということである。

 しかも、労働力の売買という考え方を基礎に、総評の指導部が理解してきた労働基本権、つまり労働力売買のための取引としての団交権、値段が決まらないときの労務提供拒否のスト権、自主的な職場の組合活動を無視し、いっさいを幹部にまかす団結権、そうした権利を前提にする組合運動まで否認しようとしていることである。

 したがって、そこではいままでにもまして、組合民主主義は無視され、一般組合員は完全におきざりにされ、上の方だけでやっていこうということになる。もっとも、このことはなにもJCとか同盟だけに限ったことではなく、 『基本構想』に反対している国鉄や全逓でも同じ傾向にある。

 いま有力な組合の指導が、大方そうなっているにもかかわらず、なおかつ労働戦線の組織的再編成が、なぜ提起されてきたのか。

 現在、独占は大企業の本工にかんするかぎり、ほとんど労務管理体制下におき、労働組合を完全に掌握している。ところが下請企業ないしは社外工、臨時工、パートという部分になると、組織もされていないか、組織されていたとしても全国一般、全国金属、化学同盟や同盟金属などの中小企業組合ということになっている。これを全体的に独占の、大企業の労務管理の下に一括・統合を意図している。中小企業労働者から社外工、臨時工の組織まで全部、あるいは業者までふくめて大企業労働組合が管理していく。そういう体制をつくりあげ、それを産業別に統一していこう、という方針である。

 だから、総評だけでなく、同盟にもいろんな問題がでてきている。

 小松製作所労組が同盟金属から離脱したのは、おのれが中心になって建設機械の産業別組合をつくりJCに参加する、つまり鉄鋼や自動車と同格の立場で右翼再編・新ナショナルセンターに位置を占めよう、と考えてのこととみえるわけだ。

 地域最賃の問題では、矛盾はもっと露骨にでるだろう。地域最賃を決める場合、同盟中小単産の要求と同盟傘下大企業の意見はくいちがう。

大企業労組は地域最賃をおさえようとして中小企業組合に圧力を加える。

 戦線の再編過程で、大企業ないし大企業労組による、こうした労務の統合攻勢は同盟、総評を問わず遂行されるだろう。所属組織がどうなろうと中小下請の労働者は闘わざるをえなくなる。

 それにしても、一一月の総評臨時大会をはさんでの紛議は、やはり階級闘争の基本問題を反映した。 「選別絶対反対」ということで、統一ということについて、理念で統一するか、理念・思想信条の相違をこえて要求の一致と行動の統一を基礎に戦線を統一するか、の問題が争われたからだ。

 その意味では、非常に原則的で大事な問題が争われたと思う。ただし、なぜ混乱したかというと、 「要求と行動によって統一する」という、その要求で行動を統一するということが現実的にはできなかった。だから論議だけになって、結局、混乱せざるをえなかった。

 これが現在の力関係だといえよう。今後の問題は、幹部間の話合いではなく、やっぱり闘争で統一していく以外に道はない、ということになる。したがって、どんな闘争をやるにしても、全体的な統一ということを頭においた闘争方針でなければだめだ。かりに賃金闘争をやるにしても、そこに賃金の要求を、どう全体的な階級的な統一を目指した要求にしていくかが問われることになる。

 平均賃金の額面一率での賃上げ統一要求では本当の要求の統一にはならない。どうしても同一労働同一賃金の原則に立戻って要求を統一することを考えねばならない。合理化についても、やはり原則的にどう闘うのか、ということが明確にされなければならない。いままで合理化については、絶対反対か、条件闘争かという論争が続けられてきたが、ここで技術革新の導入に対して、労働者はどういう対応をするかを明確にしなければならない。

 その一番大事な問題は、事前協議―経営者がどういう機械をどのように導入してくるか、具体的に報告させ、これに対してどういう問題がおこるかを大衆討議で明らかにし、そこで労働者の要求を提起し、それが承認されないかぎり拒否する。場合によって、それが承認されれば導入を認める。いずれにしろ、事前協議権と拒否権ないし承認権を確立することが重要だ。この点が確立されれば、たとえば作業のあり方だとか、公害の問題、職業病の問題だとか、労働密度の問題についても、機械導入後も闘う権利が保証される。

 これは一つの工場内の問題だが、反合理化闘争は、それを基礎にして全体的に統一しようとするなら、大幅な労働時間の短縮と休息と休暇、十分な休養の権利の要求が基本となる。こういう問題で産業別、あるいは全国的な統一闘争をくむ。

 そして、賃金問題についても、反合理化の闘争についても、もっとも重要なことは、労働基本権の問題をもう一度はっきりと階級的な立場から明確にとらえなおすことだと思う。というのは、この問題が非常に曖昧にされているからだ。つまり、幹部取引するのが団体交渉だと思われ、労務提供拒否というのがストライキの基本だと思われている。団結権についても、組合が組合として機能するための職場の活動はすべておさえられている。これは実質的な団結権の否認だ。本来、職場の労働者が生産の場で大衆討議――要求を決定し、経営のトップと交渉し、作業を停止して闘争に入り、また妥結する権利をもっている。それが団交権であり、スト権であり、団結権だ。この基本的権利を職場の労働者がみずからの手にしっかり握るなら、労働者は民主主義の指導権を握ることになる。そして民主主義は発展する。しかし、これを失えば、言論出版の権利はあるように見えても、大衆行動の権利はうばわれ、残るのは議員の投票権だけということになり、議会主義の枠内にとじこめられる。そこに『基本構想』との対決がある。

 いま、レーガン政権の核軍拡競争の挑発によって、新しい政治的緊張が生まれつつある。そのなかで、目本の労働者が労働基本権をうばわれたままでだまっているなら、そして現在の状態が続くなら、政治闘争も議会の中に封じこまれるか、小ブルジョア・ラジカリズムの街頭行動に終るか、どちらかしかない。どうしても労働運動の本質的な再構築が必要であり、労働基本権の再確立を闘いとらなければならない。

討 論

職場からの闘いを

 松江 労戦統一問題を考えるとき、従来の春闘をとらえなおす必要があると思う。春闘は五〇年代の日本独占資本主義の発展にみあうかたちで、産業別というより企業別の統一闘争として進んできた。制度要求というかたちで、社会党を中心に議会に反映させていくというものだった。いまの問題もこの枠組のなかからでていると思う。労働者は、この方針ではどうにもならないと感じ、資本の側も、経済危機のなかで、この方式ではだめだと思っている。ここから右翼的再編成が提起されてきた。

 総評がもとの春闘のラインに戻ろうとしても、どうにもならない。枠組自体をどう破るかの闘いをどう組むかがでてこなければならない。ところで、現実は組織問題としてとらえられている。それも受動的に。ここに一番の問題がある。深まる経済危機のなかで、問題は春闘の枠組を打破るような闘いをどうつくりだしていくかというのに、組織的対応だけではどうにもならない。

 日本の労働組合の特徴は上から下までの企業的一体感だ。「必ずしもイデオロギー的な一枚岩ではない。多くの大衆は理念としてではなく、資本に多少協力しないと、賃金も上がらないだろうということで組織されている。理念の問題でなしに、リアルな問題としてとらえはじめている。

 技術革新に対する闘争は問題提起のとおり、結果として入れるか、入れないか、ということより、どこまで労働者のイニシアチブで階級的な同意点をかちとるかということだと思う。もちろん資本主義社会だから、資本の論理は貫徹するが……。この段階になると、もう労働力の売買という問題ではなく、労働のあり方自体が問われてくる。機能が中央に吸収されて近代化が進んでいるなかで、職場闘争が日本の労働運動のなかでどんな位置を占めるのか、考えなおす必要がある。

 三権まで職場へおろして徹底的に闘った三池は一つの典型であり、組合が職場闘争委員会になっていたという強みがあった。だから資本があわてた。単に労働力の売買だけなら、資本も適当に対応していればよかったが、労働のあり方そのものが問われるような職場闘争だったので、強さもあったわけだ。従来のすんなりした労働組合運動の枠をこえていた。だから要求のもつ経済的性格と行動のもつ政治的性格が矛盾しており、それをどう克服するのか、労働力の売買だけでなく、労働のあり方自体をどう闘いとっていくかが問われていた。労働組合運動の枠のなかだけでなしに、本当の意味で職場の階級的な指導部、つまり党の問題が三池でも問われていたと思う。

深刻な独占の危機感

 山本 労働運動の統一というのは左翼の基本的な課題だ。そのイニシアを独占の側ににぎられてしまった。それは、なぜかというと、共産党が基本的な点で誤りを犯したからだ。独占の全面攻勢に対して彼らは統一労組懇をだしてきたが、あれは労働運動の見地からではなく、党の集票機関を確保しようという、きわめて次元の低いところからでている。

 次の問題は、なぜ独占がいまになって労働運動に全面攻勢をかけてきたか、ということだ。独占には将来に大きな危機感がある。いままでは技術革新に助けられて、減量経営をやっても生産を維持し発展させる可能性があった。しかも、それが首切りなど労働者を直撃するようなことは少なくてすんだ。しかし、これからも同様に資本主義経済を維持していけるかどうか。市揚問題でも内外ともにいままでのように安泰でいられるかどうかわからない。防衛問題など、国際問題もからんできて、はたして軍備拡張の費用も払いきれるかどうかもある。

 生産の拡大を吸収しうるだけの内外市場があるかどうか。いままでは高成長、低成長のいずれでも、日本の独占は特殊な条件で、労働強化などで乗りきってきたが、これからもそれが可能か。変化はすでにおきている。欧米の資本との摩擦は強まっている。アメリカは目本の独占もひそかに望んでいる軍備の拡大、戦争状態への対応を迫っている。ここに西欧とアメリカとの差違が見られると思う。

 こういう条件下で、労働運動の方向をどこへ向けていくか。私の考えでは、技術革新は日本だけでなく、世界の独占を一時生きのびさせるだろう。しかし、日本でも技術革新はむしろしがらみになってくる。これが帝国主義者間、独占資本主義の間の競争を強めていく。当然に労働者階級と資本の対立を鋭いものにしていく要素の一つにもなる。それを先取りして、目本の独占はいまのうちからおさえにかかってきた。行革もそのひとつだ。そういう状況のなかで、われわれはつねに攻勢でいけるわけではない。守勢にたたざるをえない場合もあるが、そのつど対応する戦略や戦術をどうつくっていくか。その一環として、労働基本権を守るとか、民主主義の問題がある。独占、あるいは帝国主義に対する現在の対応策として問題をとらえる必要がある。

 つぎは、長谷川報告にもあるように、なんとなく現在はかなりペシミスティックな状態にあるが、それはそれとして受けとめたうえで、はたして労働運動の統一の問題についても、イニシアチブがとれないものか、を十分考えなければならない。全国センターだけでなく、組合の下部、生産の現揚でもそれを考えなければならない。その意味あいで労働密度の問題もでてくる。賃金も重要な問題のひとつだ。

運動の総括の必要性

 柴山 統一準備会の発足をめぐって、総評内部では四分五裂の状態だ。われわれの側にも、大まかに言って三つの方向がある。公労協・公務員共闘の活動家の間では、準備会参加反対というかたちで統一したという意見が強い。一方、全金などでは、基本構想はアカンが、ここまできたら内部に積極的に入りこんでやるほかないし、やれる、という意見。もうひとつは、選別反対ということで、とにかく、思想信条を問わず、あらゆる労働組合の統一、選別反対ということでやろう、もし向うが拒否するなら、参加はやめようじゃないか、というもの。

 しかし、これらは戦術的対応だけであって、かりに総評全体が参加反対ということでまとまったとしても、現実の賃金闘争をどう構築していくのか、反合闘争をどうしていくのか、という問題についてはなんの解決にもならない。

 総評の戦闘的再生ということもでてくるが、具体的にどうするかということになると、ただ参加反対、選別反対で議論はあまり進まない。

 なぜ、ここまで運動がおちこんでしまったのか、という点について、総括というか、認識の一致がないと、どう変えていくかという方向はでないのじゃないか。その意味では、資本の側は相当系統的に、労働運動を階級的に解体させるための手を打ってきている。歴史的にみれば、現在のような状態に追いこまれたのは、管制高地といわれる金属産業の労働運動が完全に独占の支配下に置かれていることだろう。こうなるには独占は二〇年ぐらいにわたる工作をしてきた。まず五〇年代初めの自動車総連。後半には鉄鋼労連がストライキの失敗から一発回答の支配下におかれた。そのつぎは七〇年代初めの造船部門の全造船が完全な資本攻勢をうけて解体寸前にもっていかれた。最後は電気労連で日立、東芝など重電部門から追いこまれた。金属産業全体が七〇年代中ごろまでに一発回答支配下に属した。これを基盤にして、公労協・公務員共闘に対して総攻撃がかけられた。ここではすんなりというわけではなく、国労、動労、全逓の反マル生闘争でかなりの反撃はできたものの、電通がやられた。

 基本構想賛成、反対を問わず、合理化攻勢のなかで労資協調勢力が組合の指導権をにぎってきた。こんどの同盟、JCの右のイニシアによる労戦統一が総評の内部にもかなりの力を占めてきたのも、このことと無関係ではない。これらの単産がやっぱり積極的推進派になっている。

 この労資の力関係をひっくり返すのには、現在の準備会参加賛否の次元では解決されないだろう。おさえこまれてきた内容について、金属労働運動における運動の再建、公労協・公務員共闘のなかでの再建をどう進めるかだ。八一春闘をみても、民間準拠ということで公労協・公務員土ハ闘は闘っていない。

 この点からしても、ここまで追いこまれた目本の労働運動をどう再建していくか、賃金闘争や反合闘争をどう組みなおすか、いままでの総括をふくめて、討議し、方針をだしていかなければだめだと思う。

労働者のシラケ現象

 長谷川 その点で、そんなに意見の相違はないと思うが……。現実の問題としてはなかなか大変なことだ。しかし、はっきり言えば、いままでのやり方はまずかったからだめだということではなく、それで大衆をシラケさせているということが非常な重荷になっている。いままでのやり方がだめでも、大衆が怒っているのなら、それはやりようがある。第二部のテーマとも関連してくると思うが、労働者のなかには、社共、その他左翼をふくめて、党派に対する大変な不信がある。それが労働組合不信になっている。

ここから克服していかなければならない。そのためにはスジを通し、原則は原則としてつらぬいて、これをどう組織していくのかということが、一番むずかしいことではあるが、基本じゃないか。それがあれば、右がどう動こうが、左がどうあろうが、けんかはできると思う。

 そういう意味では思想問題だ。具体的な問題のなかで、階級とはなにか、階級性とはどうあるべきことか、若い労働者たちをもういちど教育し、彼らの自覚をひっぱりださなければならない。

 一柳 日本の資本主義はアメリカやヨーロッパの先進資本主義とくらべて、どういう特徴があるか、正確につかむことが必要だ。鉄鋼や自動車など金属産業の下請関係は日本の特殊性としておさえる必要がある。そのなかに労働力の編成も分散もあるわけだし、そこの対応関係もあると思う。マルクス経済学は、いま経済学者のなかであまり支持されていない。むしろブルジョア経済学でいう、生産の三要素―資本と労働と土地、この資本と労働がいまの高度成長をつくってきたのだという、右派のイデオロギーが裏付けになっている。

 戦前にくらべ、日本資本主義の科学的分析の面で、戦後のぼくらはずいぶんおそまつだったと思う。戦前の「講座派」の教条がいいとは考えないが、年少のぼくらが運動に入って学んだ日本資本主義の特殊性は、その大筋において実践のなかで検証されてもいたように思う。

 長谷川 その労働と資本―そこでの矛盾を見ないで、その調和によって生産が成長するんだという思想で統合しようというのが基本構想だ。だから向うにしても、いまの若い人たちのシラケをつかみきれないでいるのだと思う。彼らも、そこをつかまざるをえないところにきていると思う。これからの危機を切りぬけていくためには、そこがひとつのせりあいの場になっているのではないか。

階級意識の明確化

 松江 たしかに、日本資本主義の分析というのは大きくおさえていく、階級的な分析が必要だと思う。それともうひとつ、かりものでない、労働運動の総括というか、そこをぴしっとやっておきたい。

 シラケているといったが、職場のなかで、この問題が一番ピンとくるのは、全逓なら、あの二組といっしょになるのかということ、県労や地区労でいうと、同盟といっしょに闘えるかという感性的で即物的なかたちだ。これはある意味では非常にセクト的になりかねないが、ある場合には戦闘性にもつながっていく。そう受けとめている。

 総括の問題としては、もういちど階級的にとらえなおしていこうという動きは職場の活動家のなかにもはじまっている。

 この二つの問題は、労戦統一の問題とは縁遠いようだけど、実はここに原点があると思う。そういう意味で、目本資本主義の階級的な分析と運動の総括の必要性が、いまの危機のなかから提起されてきている。正面から取組んでいくことが必要だ。

 長谷川 セクト性を克服していくという問題もある。つまり日本の労働運動は、戦前から右も左も党派がひっぱりまわしてつくった運動だということが、歴史的なものだ。これがひびいている。

 山本 ぼくはシラケの問題は、シラケているんだでいいと思う。現実に問題はそこから出発する以外にない。その原因とそれがどういうかたちで現れてきたかは、こまかくひろえばいろいろあると思う。以前は労働運動のおかげで賃上げが確保でき、労働条件もある程度の改善はみられたけど、最近は不愉快でも資本の言うことを聞いていたほうが、労組の幹部の言うことより確実に、ある程度の利益が得られるというかたちになってきている。

 もうひとつは、労働運動そのものが官僚化して、労務部的な役割を果たすようになってきている。しかも、それはいままでの話だ。これからも資本がある程度の要求をみたすことができるかといえば、非常に困難になってきている。だからシラケのムードこそ、われわれは労働運動、党の建設についてとりあげなければいけない現実だ。

 遊上 戦前とくらべた場合、どんな労働組合であろうと、労働者の利益を守っているのだと思う。労働組合のあるところと未組織のところをくらべたらよくわかる。だから、いまの労働組合はだめだから、なにもかもはじめから、という問題提起には、一定の限定と前提をおくべきだろう。

 もうひとつの問題は、官庁統計でもいっているように、高度成長のなかで中流意識になった人たちにかげりがでてきている。そこから、スト寸前までいくような多様な動きがずいぶんでてきている。この現実もふまえないといけないだう。

 そういう意味で言ったのではないと思うが、なにもかもスタートからというように短絡しないほうがいいのではないか。極端になると、JCや同盟なんて資本のためにやっていると言うが、実際に同盟でも賃金闘争もやっている。シラケているというのも、いまの指導部の動きに対してシラケているので、自分の生活にシラケているわけではない。

第U部 分立する新旧左翼の問題点

問題提起 遊上孝一

 

 

 労働組合運動の現状について報告があり討論があったが、その労働組合運動がどういう労働者状態の反映なのか、ということは捨象されたままで言われている。

 日本の就業人口の六〇%か七〇%が労働者であり一番大きな比重を占めている。その労働者状態を抜きにして、組合上部の動きだけを見るわけにはいかないと思う。これが一つの問題。

 それから、次に労働者に依拠している政党の動きの問題。十二月号の『世界』に、 「公明・民社の政治算術」という座談会が出ている。これは公明・民社のいまの動き、いわゆる中道問題に焦点を合わせての動きが実によく述べられている。しかし、選挙対応としての動きは精密だが、投票する選挙民の状態とは切り離されたかたちで民社・公明の最近の動きが跡づけられている。

 政党の動向というのは、日本の人口構成からいって、労働者を中心とした人民諸階層の現実の反映であるという側面がある。同時に政党はそれらに働きかける反作用をおよぼす相互関係がある。そういう関係のなかで中道再編成、労働組合における統一問題が、政治のなかで起こっている。中道結集の動向をめぐってそれぞれの対応があるであろう。社会党・共産党・新左翼の動きを中道再編問題の観点から問題点を出してみたい。

 中道問題が現実にすすんでおり、ジグザグのかたちで動いているのに対して、社共はどのような対応をしているか。

 共産党はマルクス主義の政党である。マルクス主義からいうと、選挙は重要であり、選挙の比重は大きいが、他の中道の選挙対策とは別に、大衆の運動を組織し、それを社会主義の方向へいかに発展させていくかという、選挙党だけの対応とは違った反作用の積極面を持っているはずだし、持つべきだろうと思う。

 ところが、共産党の対応は、レツテッテルをはりたくないが、イデオロギー主義的に対応している。つまり、公明党と共産党との対立をみた場合、公明党も選挙民の意志を代表せざるをえない、その公明党の影響下にある人たちと共同でどのような運動を展開するのかという問題提起なしに公明党をやっつける。これが俗にセクト主義とかいわれるものだ。

 つまり統一の観点をまったく欠落したかたちでの対応になっている。これが共産党の問題点の一つだと思う。選挙党として共産党が選挙を重視する結果、選挙民の意志が反映されるという側面と同時に、共産党が現実を変革するという方策は非常に弱い。これも共産党の対応の一つではないか。ある意味で議会主義と評価されるのはそういうところにある。そこから、たとえば労働組合における特定政党支持という問題について、共産党の批判には正しい側面と同時に、つきつめていえば「じゃあ社共支持ならいいのか」あるいは「共産党支持ならいいのか」という問題が出るようなかたちで、大衆組織を選挙対策といった観点からしかみていない。

 第二の問題は、選挙を重視するところから現実に対応した側面としてソフトムードを特徴として、自主独立とソフトムードの政策を打ち出しているが、その党体質はまったく頑固なスターリン的な運営で貫かれている。これも日本共産党の特徴である。

 彼らは複数主義をいいながら、 一面では反党分子論を持っている。反党分子論について、彼らが自信を持っている背景には、 「反党分子」が能力がない、力がないという反映でもあると思う。たとえば神奈川県の長洲知事選挙の場合、共産党は「反党分子」長洲を支持しなければならなかった。この場合には、選挙民の志向を無視できなかった。しかし、それは戦術的な対応であって、独善的な党運営、独善的な思想と行動は変わっていない。中道問題についていうなら、右からの歯止めに持っていくのでなく、反対に左からの歯止めの役割をするような打撃的政策をとっているように思われる。

 共産党にとっていま一つの問題は、現在の資本主義の行き方では解決できない、社会主義的展望と結びつける以外にないという客観事態にかかわらず、社会主義への展望が明確でない。そこでは社会主義と民主主義が切断されたかたちの対応しかできていない。現在の資本主義の危機を社会主義の方向へ対応、展望というかたちで打開すべきところがなされていない。

 社会党の内紛問題は、中道を指向する勢力と中道を否定する勢力が党内に存在して、それが対立しているのだと大雑把に言えると思う。

 社会党内は、マルクス主義者、キリスト教社会主義者、社会民主主義者などさまざまである。左右を区別するのはむずかしいが、党内の一部が中道再編成を指向し、マルクス・レーニン主義を主張する社会主義協会派がこれに反対している。その論争をみると、 「日本における社会主義への道」の改正をめぐって、協会派と反協会派が対立している。その協会派の批判は、 「マルクス主義の危機」とか「社会主義の危機」とかいう現象が現実にあり、それが人民に大きなインパクトを与えているにもかかわらず、そういう「危機」なる現象が存在しないかのように対応している。ここでもイデオロギー主義的にしか対応していない。これは共産党と同様の固定した観念でしか現実に対応できない、イデオロギー主義的なかたちでやられている。

 キリスト教社会主義者も社会民主主義者もマルクス主義者もいる統一戦線党が目本社会党であるとすれば、党内の論議はイデオロギー主義を排して政治方針はどちらが有効な対応なのか、というかたちで分析されなければならないのに、先行しているのはイデオロギー主義である。

たとえば、協会の「道」をめぐる論争では、プロレタリア独裁を主張している。

 「独裁」を認めるか認めないかで、あたかもそれが党内論争の焦点の一つになっているようだ。社会主義政権は自己の体制を維持するために、階級支配をやる、その場合に、法にもとついてやるのかどうか。法のなかに思想を拘束するような、昔の治安維持法のような法を制定して、相手をやっつけるのか、どうか。司法機関は党への従属でなく自立的に運営さるべきなのかどうかが論争されなければ、不毛な論争となり、統一どころか、かえってギクシャクする。むしろ、そうなっているのが、いまの社会党混乱の基本をなしているように思う。

 次の問題は、国際共産主義運動に「多極化」現象が生まれているのは客観的事実である。そこから意見の対立が生まれているのも客観的事実である。それが色濃く反映している、俗にいう中国派、ソ連派、何派という形で。これがイデオロギー主義的に対応してなかなか統一への道をみいだしえていない。これはわれわれをふくめて全部の左翼について言えると思う。

 共産党内部でも多様な意見はあるだろうが、あの党運営の体質から、それが一致しているかの現象が見えるにすぎないように思う。

 この問題はすぐに解決できる問題ではないが、具体的事実の具体的分析を通じて相互に違いを確認しあいながら、合意と寛容の精神で論争することが求められていると思う。たとえば協会派の文書を読むと、現実に存在する七〇年近い社会主義の建設の経験とそこからの教訓は、まったく汲み入れられていない。これは事実だ。そういうなかからは、 「社会主義、マルクス主義の危機」の現象には対応できないと思う。

 目本共産党の場合にも、社会主義は永遠の彼方に持っていって、民主主義と社会主義のあいだはまったく断絶している。この場合、共産党のいう社会主義はまったく抽象化された社会主義で、七〇年に近い社会主義の経験を生かす、それを現実の日本の革命のプロセスのなかにどのように生かしていくのかという姿勢がない。

 それで、社会主義への展望の一つの例としていうと、大きな問題は社会主義建設の批判的総括であり、もう一つの大きな問題はスターリン主義の問題だと思う。ところが、協会派の社会主義論を見ると、そうは言っていないが、スターリンの悲劇は認めているにもかかわらず、おそらくもう五六年で解決しているんだ、と見ているかに見える対応がある。

共産党はスターリン主義をまったくと言っていいほど克服のための組織的努力がなされていない。

 こういう点から、日本のマルクス主義政党、マルクス主義者に致命的な傾向として、統一政策の欠如がある。それは、共産党の場合、中道諸派を支持している大衆とも統一する志向なしに、縦割で選挙地盤化していく傾向が克服されていない。これでは、労働者階級の統一も実現しえないのではないか。言いかえれば、イデオロギー主義的対応では共通点をみつけようというよりも、対立点だけが強調されて、かえって統一の妨げになるような動きになっている。

 その他の左翼、俗に新左翼といわれている諸党派は、これはスターリン批判というかたちで出発しながら、その批判は典型的なスターリン主義的なかたちでしか問題を出していない。それが内ゲバ、彼らの戦闘的対応として端的にあらわれている。

 次の第三部への私の希望は、われわれのなかにもこういう複雑な国際共産主義運動、労働運動の情勢は反映されてくる。その場合に、一枚岩的な一致は虚構でしかないだろう。

一致点だけを強調してできたものは、あまり味のない優等生の作文ができることになる。一致点も大事と同時に、違いも存在しているのだということをお互いに認めあって、違いを克服するための具体的な検討が要請される。

 次に、社会主義という場合に、七〇年近くになる社会主義の経験を、日本の社会主義の道にどのように生かすのかという問題がある。

討 論

前衛党の存在の意義

 山本 遊上氏のいうイデオロギー的というのは観念的、イデオロギーそのものではなく観念論的な対応の仕方ということだろう。具体的な歴史の歩み、情勢、過去の経験、当面している主要な課題は二の次にして、観念論的な立場から代々木の共産党も社会党内の社会主義協会派も対応しているんだ、と。したがって、そういうやり方は、大衆にアピールすることがないんだと、言いたかったんだと思う。

 しかし、イデオロギーそのものは、そんな観念論的なものではない。きわめて具体的で、しかも集約したかたちで、歴史的な運動の諸経験、革命の諸事実のなかから集約されたかたちでみちびき出されたものがイデオロギーであって、イデオロギーなしの政党なんか、自民党までふくめて存在しない。遊上氏の提起は観念論的なやり方だと受け止めて話をすすめたい。

 まず第一に、政党に対する評価をする場合に、政党は敵味方を問わずそれは前衛である。独占資本を代表している自民党は独占資本の前衛であるし、共産主義者の党は立派な前衛であるかどうかは別として労働者階級の前衛である。

 それから政党であるかぎり綱領を持たなければならない。しっかりした綱領を持っているかどうかということ。その次は政策が正しいかどうかということ。その次は組織の問題だが、これは省く。

 八二年の当面する課題をとらえて左翼の問題を論ずる場合は、少なくとも政策、いま労働者階級あるいは国民大衆が当面している政策についてそれぞれの党がどう対応しているかをミニマムとしてとらえなければならないと思う。したがって遊上さんの説のなかには、観念論としてとらえた場合、十分聞きうるものがあるが、八二年を迎えてとしてとらえた場合、具体性がない。

 政策のなかで基本的な点は何かといえば、国内的には労働運動の問題でもはっきりしたように、独占のプログラムが行革に典型的に現れているし、労働運動の政策に現れているし、農業問題でも独占の利益のために農民を犠牲にしている。

 国際的には平和の問題である。レーガンの採っている政策にたいして、目本の左翼はどう対応しているか。

 そこでたとえば共産党は、平和の問題については小ブルジョア的な民族主義の立場に立っており、行革、労戦統一、農業問題についても議会主義である。

思想的対応の弱さ

 柴山 遊上さんの出した問題のうち、現在、政治的再編成が進行している。その基礎には労働戦線の右寄り再編成があり、さらにそれを制約するものとして労資の力関係がある。高度成長期を通じて自民党の支持率は低下してきたが、それが七四、五年恐慌以後、とくに衆参同時選挙以後支持率が上向いてきている。この原因はどこにあるのか。もう一つは、社会党、民社党などの中道勢力が資本主義の危機が深まるなかで自民党の補完勢力というかたちを強くしている。それから、左翼といわれる社共がこの危機的状況のなかでますます対立を深めている。

これらの原因はどこにあるか、などについて、具体的に分析する必要がある。

 七三年の石油ショック、七四、五年恐慌を経てヘゲモニー集団としての自民党は依然として力を失っていない。それは石油ショック、七四、五年恐慌を日本の独占資本は比較的うまく切り抜けたからである。これには労働運動の抵抗が非常に弱かったことが基本にある。そのなかで逆に中間層が労働階級とともに独占に抵抗して自分の地位を守るというよりも、独占に協力しておこぼれを貰うかたちになっているのが中道勢力の動きであると思う。

 そういうなかで左翼が社会主義の展望を打ち出して、独占の提起している政治選択に対して別の政治選択を具体的なかたちで打ち出しえないことが、日本の左翼政党の衰退、青年が既成左翼からますます離れていく原因だと思う。そういう問題を抜きにして、現在の社共の問題は論じられないと思う。

 国際共産主義運動の多極化の問題も、はっきり言ってソ連共産党二〇回大会のテーゼのいくつかの論点で中ソが対立したことから、いまやアフガン問題、カンボジア問題、ポーランド問題などに対立がひろがり、中国のベトナム侵略という深刻な事態まで惹起している。しかも、これらの対立点、問題も、理論的に深く解明されているとはいえない。きわめて曖昧である。

 われわれも、このような点を解明する努力をしないと、独占のイデオロギーに対抗して大衆を社会主義の理想に獲得することはできないと思う。

 荒川 スターリン主義の問題は、社共の責任だけでは論じられない。ここにいる方は戦前戦後を通じて共産主義運動に参加してきているが、一つの政党をつくりながら労働者党はなぜみのりが少なかったのか。そういうことを踏まえて、党と外との関係を討論していかないと、社共が悪いという感じで、ぼくらは全然違う立場にいるような感じを受ける。具体的には身近な党生活にしても、大衆運動とのかかわりあいにおいて、もう一度再検討する必要があるのではないか。そういう意味で、ぼくは十二月号の「本の紹介」で問題意識を出しておいた。

 松江 違った角度から一言だけいえば、社共の問題という場合に、一般的に労働運動との関係だけでなく、たとえば共産党にも多かれ少なかれあるが、社会党は組合党といった状態がある。戦後から戦闘的に闘って社会党を支えてきたのは、職場のなかの戦闘的な民同のリーダーではなかったかと思う。それは職制すれすれの地位にいて職揚の状態をよくつかみ、みんなのいろいろな問題を知っている。それでいて職制ではなく、労組の活動家集団としてたくさん形成されていた。それが技術革新のなかで下級職制とそれに近接していたものが洗い流された。そこでかつては社会党の戦闘的な民同といわれた人びとが、上昇化したり分散していくなかで全体的に戦闘性の薄れというものが出てきているのではないか。これは共産党の場合にもある程度言える。

 そういう意味でわれわれにも、基本的には労働運動との結合のなかで現実に大衆とともに闘っている問題を基礎にした、いわば党の追求という問題は、社共の場合をみても、われわれにとっても一番重要な問題じゃないのか。その辺のところがこっちにないと、社共まずいということだけになってしまう。社共が右翼化してくる基礎をわれわれがもう一回取り直して、そこからつくってゆくことが必要じゃないか。

社会党の運動の弱点

 長谷川 社会党の問題が出てきているが、中道政党も既成左翼も新左翼も、日本の階級闘争の側面である。政党が指導して階級闘争をやっているというより、実際の階級対立の発展が政党をいろいろ動かしているし、その意味で逆に大衆に作用しうる力を持つ。その点でわれわれのことが出たけれども、正直な話、代々木を出てからわれわれは実質的には階級闘争から排除されている。その点では新左翼は階級闘争の本流には乗っていないけれども、ある側面で一定の潮流をつくった。が、本流ではないから限界にきているし、いまや転換せざるをえないところに追いつめられている。そういう苦しさが逆に彼らのなかに内ゲバを発生させる条件も生んでいる。

 社会党について一番重要なことは、労働戦線の問題と関連して、本来のあそこの運動、憲法擁護と平和三原則の運動というものが、いまや独占には許容しきれない問題になりつつある。これが社会党の当面している一つの問題である。

 ところが平和三原則的な運動すらおさえてしまおうという独占の意図に対して、平和三原則に依拠する運動は、大衆を組織的に強力につかんだかというと、総評の民同左派の労働組合指導の範囲内でしかつかんでいない。自主的な大衆の運動として平和三原則を社会党は組織しえなかった。この弱さがこれを守ることにおいて抵抗力が弱いんじゃないか。主として平和三原則の推進力は鈴木茂三郎の系統を引く協会派である。その平和三原則の運動をつぶそうとする主要な社会党の党内闘争は協会派の排除であった。そういう意味での協会派の弱さは露呈している。現在の階級闘争の条件のなかで、軍拡、あるいはレーガン政策に一番よく現れているものは、帝国主義の指導権を守ってソ連と世界的な革命の機運に対して対抗しようという核軍拡競争を煽っていることだ。そういう不安がたかまっているなかで、山本君が言ったように、一人ひとりの住民にとって平和は大切なことだし、みんな平和を願っているが、軍拡が平和を守ることだという思想も、十分はいりうるし、またはいっている。

まさに、その辺のところに、それを克服できない平和三原則的な運動の弱さがある。それは総評左派的、つまり春闘方式的労働運動の弱さと合せて窮地に追いつめられている。だから、平和運動あるいは安保闘争を組織するにしても、もう一度その辺を掘りおこしてやらないと、本当の意味の新しい平和運動、反安保運動、いまの帝国主義政策との対決は組織できないと思う。われわれが志向しているのは、その組織をつくり出すための指導勢力としての党であるのだから。

 われわれはある意味ではゼロから出発したようなものだ。この二〇年は遅々たる歩みだったが、これから階級闘争の本流にどうやってはいりこむかが、われわれにとって主要な課題だろう。

問題は分立の根元

 司会 遊上さんが提起した問題とみなさんのあいだには、かなりかみ合わない面があるようだ。その点で遊上さんには異論があると思う。遊上さんはみんなの論点以前の問題を提起しているように思う。そこを論じないで、戦術的とか政策的とかいう問題で議論が出ているが、それ以前の問題について遊上さんは提起していたように思う。

 遊上 かみ合っていない。おれの提起の仕方が下手でかみ合わないということもあると思うが、気持ちとしては中心問題のつもりで出している。労働組合の政策という場合は、別の問題としてやってもらいたい。政党が、たとえば綱領がどうだとかいうことも、それはそのとおりで異議はない。綱領においては一致点が多いんだ、実際は。核戦争に反対して平和を守るといったら、相当な一致点だと思うんや。それが行動において分岐し、対立しているその問題を討議してくれ、そういうことだ。もう一つの問題は、社会党も共産党も現実に社会的存在として大きな意義を持っている。おれたちと比べたら問題にならない。そういうなかでどう対応するかが問題意識だよ。

 椎名 地域でやっているが、とりわけいろいろな思想傾向の人がいる現実の運動のなかで、どうイニシアチブがとれるかで悪戦苦闘してきた。いくつかの屈折点があり局面があったが、最初は解同の問題、それから公務員聖職論、こうした点で当時の組合内部で共産党とその他の人たちとの相違がかなり明確になった時点で、社会党の協会系以外の人たちと無党派の人たちが、共産党がゴリ押ししてきた諸問題にどう対応するかで、一定のグループづくりをし、その時点では成功した。これは社会党の内部に協会問題が出てきて後に解体した。ぼくらの見通しが甘くて、それなりの影響力を持ちうるのではないか思ったが、そのことをきっかけに社会党が内外に対して非常にセクト的になり、それが原因で無党派の人たちも離れ、つぶれた経験がある。

 それ以後も、統一の母体になる組織をつくろうと努力したが、やってはつぶれ、やってはつぶれのくりかえしであった。主要な原因は、労働運動の現場で階級闘争の反映というか、社会党系の運動なるものが、運動が崩壊してくる過程で運動をどうすすめていくかという段階で、セクト的な対応をし後退していく。現実の運動の問題で統一した議論ができなかったことが、いま考えてみると大きな原因であった。

闘争の本流の形成を

:

 松江 遊上さんが出した問題提起に対し、戦術的なものが多かったと思うが、これは大づかみにいえば、やはり政党というものは右からも左からも真中からも階級闘争の反映だと思う。階級闘争とは左からだけでなく、右もある。ある意味では独占資本と労働者階級と小ブルジョア階級、そこに基礎をおいてとらえていかないと、階級闘争が弱ければ小ブルジョア階級が独占に組織されるのは当り前の話だ。結局、いまの問題は、階級闘争の弱さがどう左翼の弱さに反映しているかだ。さっきも一柳さんも言われたように日本の独占資本主義はなまやさしいものではない。それが仕掛けている攻撃の性格を正確に見定めて、それとどう闘うかがはっきりしていないということだと思う。端的にいえば、第一部で問題にされた技術革新についても、それをどう闘うかの点がはっきりしてこないということに現れているように、階級闘争の弱さが小ブルジョアを向うへ引きつけるし、それは独占との闘争の弱さの反映だと思う。

 長谷川さんは本流のなかにはいっていかなきゃと言われたが、階級闘争の本流は弱かろうと何だろうとある。それが鋭い階級的な反映としての政党レベルで本流として形成されて来ていないところに問題がある。現実に自然発生的に起きている階級闘争の本流のなかに、本当に集約を結集できる政党レベルの本流をどうつくってゆくか。これはいまある本流のなかにわれわれがはいってゆくというよりも、小さくても闘う労働者と本流をいっしょにつくってゆくということを課題にしなければならないだろう。

 

第V部 われわれのめざす 社会主義の問題点

問題提起 松江 澄

 

 現在の社会主義革命の途上で、ポーランド問題、中国の問題が出ている。その場合に個別の社会主義の問題としてもとらえていかなければならないが、またあわせてわれわれの革命的前途もふくめて、包括的にとらえてゆく方法論が必要ではないかと思う。

 現在生まれている社会主義の諸問題というのは、革命の世界史的過渡期から生まれた、そしてそれと不可分に結びついている社会主義革命の一国的過渡期の問題としてとらえてゆく必要があるし、そういう意味でわれわれとも深い関係があるのではないか。

 言うまでもなく、帝国主義段階になれば、マルクスの想定とは違って帝国主義が各国間の諸矛盾をひき裂いてゆく。そこからレーニンは一国からでも革命は可能だと提起して、実践的にもロシア革命で証明していった。革命は経済革命でなく政治革命だから、政治的諸矛盾は集積しているが、組織と文化の網の目で反乱をたくみに上から押えつけている発達した資本主義国よりも、矛盾が荒々しく露呈してくる資本主義がかならずしも十分成熟してない中進または後進的な国から革命が起こることはありうることだと思う。現にまた歴史はそれを証明している。その場合には、比喩的にいえば資本主義が仕残した前近代的な残滓の一掃という課題が、社会主義革命、社会主義建設の途上で、その遂行とあわせて解決してゆかなければならないという、非常に困難な二重の任務を負っているというのが現状ではないかと思う。それはまた、中進もしくは後進と言ったけれども、同時に東ヨーロッパの多くの場合のように、第二次大戦のなかで赤軍の強大な援助によって革命的な発展が生まれたという条件もふくめて、そのことをとらえていかなければならないのではないかと思う。

 それでは、これはわれわれと無関係なのかというとそうではない。これも比喩的な言い方になるが、発達した資本主義国において、客観的には十分成熟しきった革命をはらむ胎内で革命を生みだすために闘う問題と、十分成熟していない資本主義国もしくは農業国のなかから生まれた革命のなかで、前近代的な残滓の一掃を社会主義建設のなかで闘っていく問題とは、大きな世界史的発展の上から言えば別のものではないと思う。

 そういう意味で私は、現在の世界の社会主義革命のなかで非常に重要な意味を持ってきていると最近痛感しているのは、 「民主主義の徹底」という課題である。

 よくわれわれは「民主主義から社会主義へ」というけれども、レーニンがくり返して言っているように、社会主義とは本当の意味での民主主義の徹底以外の何者でもない。その問題を抜きに社会主義を考えることはできないし、社会主義から共産主義へと移る過渡のなかで、全世界が避けて通ることのできない民主主義の徹底という課題が、改めて現代の社会主義革命の途上に明確に現れてきているのではないかと思う。

 そういう意味で日本の社会主義革命を考えた場合に、本来の意味の「民主主義の徹底」ということは、少数の民主主義から多数の民主主義へということで、つまり労働者人民が本当の意味の主人公になるという問題にほかならないのではないか。日本の場合には、資本主義は成熟し、腐朽し、社会主義の物質的な基礎は完全にでき上っている。とくに目本のように官僚機構が強い国家独占資本主義の場合、生産の社会化は非常にすすんでいるし、そういう意味で社会主義へ移行する物質的基礎は完全に成熟し切っている。

 そういう状態のもとで、権力を奪取して以後の場合に何が大事かといえば、生産力の問題よりも社会主義的な生産関係をどう組織するのか、そのための上部構造、政治構造をどうつくるのかという問題が、目本の社会主義革命の場合には決定的に重要になるのではないか。

 それは結局、生産の現場から政治まで貫ぬいて労働者階級が主人公になるという問題だし、それはおそらく職場と地域を基礎にしたリコールをふくむ真に民主主義的な代議機関をどうつくるのかという問題にもなってくるのではなかろうか。

 日本の権力の奪取、社会主義革命を考えた場合に、おそらく議会は無視できない存在だろうと思う。だから、われわれは綱領的な提起では議会からはじまるかどうかわからないと書いているが、ありうべき一つの例として言えば、議会における政党連合によって改良主義的な政府、あるいは半改良主義的な政府ができ、そのことが矛盾をいっそう深刻にする、そういうなかでの大衆闘争の発展がその政府を左に追いやるか、さもなければ直接労働者階級を中心とした何らかの形での権力の打倒に向かって前進を開始してゆくかという

ことになるのではないかと思う。

 その場合、われわれは革命の基本戦術として反独占統一戦線ということをくり返し文書でも書いているが、反独占統一戦線というのは、のっぺりした平板な組織論としてとらえるのは間違いであると思う。これは権力に対するある種の闘争連合のようなもので、これが現実に反独占統一戦線という形で明確に出てくるのは、まさに権力を奪取するかしないかという状態のなかで最終的に形成されてくるだろうし、そういう場合にわれわれは、遊上さんが言ったように、その陣列と対象をあらかじめ選別すべきではない。本当に日本の社会主義をめざして闘う諸勢力が、全部連合して一つの統一戦線が形成されなければならないだろう。

 しかし、その場合に大事なことは、大衆的な闘争だろうと思う。先に柴山君も言つた社会主義の展望を画きだす全政策論を提起することも、重要だと思うが、大衆的な闘争が次第に共闘を組みながら発展してゆくという場合に、その要求の高さ、あるいはその政策の鋭さというよりも、要求と体制の激突する軋みの鋭さが、実は社会主義を近づけるのだと思う。政策論的な意味での社会主義の展望と同時に、本当の前衛党というのは、そういう激突の場合に一歩先の行動のスローガン、〃何をなすべきか"ということを的確に冷静に提起することができるような、そういうものでなければならないのではないか。

 そういう点から何よりも大事なことは、労働運動の階級的発展と、大衆運動の政治的発展をどう追求するのか。それがたとえ改良的な、あるいは経済主義的な要求であろうとも、現在の危機のなかでは非常に鋭い軋みを持つ客観的な可能性はますます増えてきているのだから、そういうなかでの大衆闘争の徹底的な追求ということ、もう一つは何と言っても労働者階級がヘゲモニーを握るということだ。日本の場合には、鉄砲を撃ちあって革命ができるわけではなくー部分的にはそういうこともありうると思うがー主要な闘争形態は全生産を制圧すること、それを基礎にした政治ゼネストだと思うので、そのためにどうしても必要なことは生産現場における労働者のヘゲモニーを、もちろん資本主義のなかでは完全には闘い取ることはできないけれども、労働者のヘゲモニーを闘いを通じてどれだけその獲得に迫るかというその闘争だと思う。これは先の技術革新の闘争とも結びついてくるが、そのヘゲモニーをめざす闘いが、当然にも資本主義のなかで制圧されたとしても、その闘争の発展が最終的には生産を統制し、工場を占拠し、政治ゼネストを組織する中核になるということではなかろうか。

 そういう点で、きょう現在の闘いのなかでも、生産の現場における労働者の指導権をめざす闘い、いわば生産の管理=労働の管理をどう闘い取っていくかが、一つの中心的課題ではないか。

 そういう闘いの過程からこそ、権力を奪取した以後における日本の社会主義革命、社会主義建設の労働者のヘゲモニーというものが、本当の意味の主人公というものが、生まれてくるのではなかろうか。

 もう一つはイデオロギー闘争の問題だが、とくに日本の現状では絶えず反革命、反社会主義の宣伝がなされている状態のなかで、徹底的な敵の思想攻撃に対するイデオロギー闘争をどう闘うのかという問題が重要だ。大衆闘争の階級的政治的追求、それから生産現場における労働者のヘゲモニーをめざす闘い、そしてイデオロギー闘争という問題が、どうしても日本の革命をすすめていく上で基本的で基礎的な重要な闘争ではないか。

 そしてもう一つは、国際平和を維持する闘争だと思う。直接介入はしないにしても、いろいろな形での介入はチリの例をみてもあきらかなわけで、そういう意味でわれわれは、何としても平和を破壊する行為に対する徹底した闘いというものが、またそのなかでの国際連帯の問題が非常に重要だと思う。

 こうして見ると、大衆闘争のなかでの労働者の指導権をめざす闘いが、権力奪取後における日本の社会主義建設の、もっとも中心的な基軸になって、名実ともに労働者の徹底した民主主義、労働者人民の主人公が生まれてくるのではなかろうか。

戦後はじめに、共産党が「国営人民管理」というスローガンを出していたのを覚えているが、私は国有化という問題も、生産に対する労働者の完全な統制と結合したものとして提起されなければならないと思う。単なる語呂の問題ではなしにーいまごろ共産党は国営人民管理とは言わないけれども。そういう問題として国有化の問題もとらえていかなくてはならないのではないか。問題は所有の形態だけではなく、その管理と支配の問題なのだ。そうしてそれは、すぐれて生産の現場における労働者のヘゲモニーの問題である。そうしてそれが本来の意味の「民主主義の徹底」なのである。

討 論

民主主義闘争の意義

 遊上 報告の民主主義の徹底という考えは重要な指摘だ。一部の報告と関連して言うと、民主主義の徹底とは労働者が職場で、一般的にいえば主人公になる、そこまでの民主主義の徹底だと思う。しかし、それは権力を取るまではブルジョア民主主義だ。長谷川さんの報告で、ブルジョア民主主義の範囲として、民主主義闘争を低くみている問題提起の発想は、まずいと思う。

 長谷川 おれ、そんなこと言ったかな。ブルジョア民主主義のなかでの闘いの問題として言ったんだ。

 遊上 ブルジョア民主主義の闘いこそが重要なんだよ。それを労働者がおのれのものとし、ブルジョア民主主義ではできない経営のなかにまで持ってくることなんだよ。この過程を経ることが社会主義における民主主義の問題と関係すると、ぼくは思う。そこははっきりしておかないといけない問題だ。

 松江 日本の場合は徹底した民主主義はできない、革命までは。しかし逆に言えば、徹底した民主主義とは名実ともに労働者が主人公になることだ。それは実現できないけれども、それをめざす闘いなしに日本の変革は闘いとれない。片方では、すでに生まれた社会主義は、それを徹底して闘うという点では、別のものではない。その上での前衛党の再建だ。

いままでの諸闘争を見ると、ある場合には非常に戦闘的だけど、その力を蓄めながらヘゲモニーをつくるということがなかなかできなかった。進むことと退くことを知り、戦闘的に闘うと同時に、ある場合には職場や地域のなかにそれを蓄めてゆくことが必要だ。本当の意味の共産主義の前衛は階級闘争と結ひついて組織されてくる。完全な前衛党の再建は、変革の以前にできるか、途上にできるか、後になってできるかわからない。しかし、誠実な共産主義者が、共同闘争のなかからそういうことができる能力をつくることなしに、日本の変革はできない。

分散した力を結集できる党、その戦闘力を強力に展開できると同時に、ある場合にはそれを蓄めることができる党、そして戦闘的であると同時に大胆に妥協ができる党、そういうものと階級闘争の結合が、変革をみちびき寄せる基本的に重要な問題だということを付加えておく。

 長谷川 職場における民主主義という問題は、権力を取らないでも、向うが動揺してるかぎりは相当いけると思っている。とくに終戦後の状態は、驚くほど自由だった。そういう力関係だった。職場のなかで集会も、討議もできた。東芝の堀川町なんかは労働者が管理してるようなかたちで工場長まで労働者の承認なしには、きめられない状態をつくり上げた。だが、そこで抜けていたことは、それが何かという思想的なつかみ方だ。それが何をめざし、どう発展させられなければならないか。その発展の方向性がはっきりみられない、そこが党の問題だと思う。

 松江 ぼくもそうだと思う。

労働者階級の指導性

長谷川 しかもそこまできて、実は一番問題になるのは、本当に権力でそれを保証できなかったということだ。大衆の力と向うの弱さだけで保証している。だから、ブルジョア民主主義のなかでプロレタリアートの指導性という問題はかなりいく、そういうところに限定するなら。しかし、それは全体的な政治的な方向と思想的な指導力を、そこでの指導性を持っていなかったら、それだけでは実を結ばないということも、言っておかなければならない。もう一つ、いまの現実の状態はそれに比べたら本当に惨めで、息もつけないような状態におかれている。たとえば、石川島の田無工場では、およそ左翼的な連中は忘年会にも運動会にも参加させられない、挨拶しても向うが顔をそむける孤立状態におかれている。しかもそういう条件のなかで日本の資本主義の技術水準と競争力はもの凄く強いものとなった。しかし、資材資源という問題はきわめて弱い。だからこそ非常に集約し集中したかたちで体制をもたしているのだと思う。そういう条件がこの矛盾の爆発が客観的に起こる場合、つまり政治的な運動あるいは階級闘争の組織的な運動の先を越して、矛盾の方が先に爆発するという問題は全然ないとは限らない。大衆が自然発生的に決起して、どの政党も後ろに取残される状態が起こりうる可能性がゼロだとはいえない。

 いまのような状態で、全産業的危機が起こり、そのなかでこの間の全逓の反マル生闘争のような闘いになったら、えらいことになる。そこを巻き返されたら、今度は本当にファッショ的な支配がくるだろう。その時に、本当に正しく舵がとれるかどうかが党の任務である。それだけの指導力ある活動家を持っていなければならない。決して革命は考えているような一定のコースで発展はしない。何がいつ、起こるかわからない。それにも対処できる者をつくらなかったら、党建設ではないだろう。

真の前衛党の必要性

 松江 まったくぼくもそう思う。八○年代というのは客観的な矛盾はおそらく一〇年前より一〇年後はもっと激しく出てくるだろう。用意ができない場合には、労働者はいつまでも自然発生的にも黙っているわけはないから、爆発することがある。その場合に、三つの任務に耐えうる党がなければならないと思う。その一つは、先に三池の例を出したが、要求の経済的な性格と行動の政治的性格の矛盾が自然発生的に起こったら、爆発するか敗北するかになる。要求の経済的な性格と行動の政治的な性格を統一的にとらえて、労働者の力にできること。もう一つは、一カ所の闘いを広い視野で全体からとらえて、統一的に発展させる力量を持った党。それから、諸勢力を選別ではなく大胆に、ある場合には妥協しながらでもいっしょに闘える党。党とは、根性と同時に力量を持たなければならない。セクト主義とは、力量がない場合に、しばしば大言壮語かセクト主義になるので、革命性とは根性でがんばるだけでなく、同時に内容を豊富に持つ力量を備えた党ができなければならない。労働者の場合だって、なかなかヘゲモニーなんていかないが、自然発生的にはある、どんな職場のなかにも。だからぼくがいま言っているのは、せめて向うの言いなりに何もかもすんなりとというんでないところからはじめようと言っている。

 山本 レーニンが言った革命が成功する四つの条件とは、第一は客観情勢が変わる、第二は大衆が立つ、第三は敵の内部が危機情勢を処理できなくなって、内部分裂で力を一本にできなくなっている、第四は指導しうる党が存在する、である。今日の情勢で社会主義革命というと唐突に聞こえるが、そうではない。社会主義革命をわれわれが前提にした場合、いくつかの段階における任務、いますぐ下準備しなければならない問題と、途中で各国の経験もこなしながら、創造的にどう生かしていくかという問題。いざという時にバタバタしない党、ボルシエビキだって中国の共産党だって、もともとは小っぽけなグループだった。それをどう鍛え上げていくかが重要な問題である。当面の問題については、階級闘争の問題、社会主義革命そのものが階級闘争の集中集積であって、権力の問題である。同時に創造的な問題である。創造性の問題は、われわれはそれに備えて目ごろから検討をつづけなければならない。

したがって一例を自主管理の問題にあげれば、階級闘争のつながりとしてとらえなければいけない。自主管理そのものは間違ってはいないが、階級闘争のつながりにおいて自主管理あるいは労働者の生産管理が必要の時代というふうにつながっていくので、そういうかたちでとらえた自主管理ならいいが、社会党の大内氏たちが提唱する、何かでき上ったものとしてとらえたら、これは固定してしまう。ブルジョアジーはたくみにこれを利用するわけだ。

 当面の問題は、社会主義云々についてのイデオロギー闘争、これは必要だ。資本家は社会主義を悪いように悪いように宣伝するし、われわれの陣営でも肩身が狭くなるような思いをしている人がいるから、この闘いが必要だ。次に、現実に当面している国際的な課題として平和の問題が第一。その他いくつかあるが、この闘いに積極的に参加してゆくこと。その次の問題は、簡単にいうと前衛をその方向に鍛え上げてゆくこと。そういうことの観点で社会主義革命はつながってくると思う。次の問題は過去の党が経験しているように、社会主義革命というのは政治革命、権力を取る革命、社会主義建設を通じて。フロレタリア独裁のかたちを、これにもいろいろな形態があるから、かならずしもソ連形態とかどこそこの形態とか考えないで、創造的な形態としてとらえ、そのもとで方向は一致していても基本ではどうして実際に生かしてゆくかというかたちで、問題を処理する。

 一柳 日本の農民は社会主義を承認する可能性がもっとも多い帝国主義国の小ブルジョアだと思う。知識水準も高く、中国侵略の戦争経験を持ち、それから都市工業の恩恵と搾取を一〇〇%受けている農民で、子どもがみんなプロレタリアートだ。 一軒に一人や二人かならずいる。公務員だけではない、ブルーもいる。それが自分で闘う形を選んできているのが事実だ。日農がなくなっても。新潟が典型だ。福島潟の農民は土地取上げ闘争で国家と闘っている。福島潟に一〇アール米をつくると、これに対しては政府の割当がこない。政府はこの米を買わない。これは出作だから、自分の村に持 っている田んぼも、そっちの方でも一〇 アール、政府米からはずされる。結局、.政府が一俵も米を買わない農民が、あそこには十何人いて、そのなかの何人かは契約違反だから国有地を返せと言われている。この連中がそれでもやっている。みんなが経済的利益だけでやっているのかというと、経済的要求は基礎にあるが、同時にいまの独占の政策を許さん、農業に対する蔑視だというものがある。そうすると、それでは損じゃないか、政府のいうとおり、作を減らしてペンペン草をはやして補助金をもらおう、と脱落していく者もある。これは農民相互のあいだでイデオロギー闘争をやっているわけだ。農協の理事もいるし、土地改良区の理事長もいるが、農協は国家機関だと言っている。村の農協で理事でがんばっても駄目だ。この農協では駄目で、闘うには農民組台だ。いまの農民組合は弱いから、つくらなきゃいかん。農民組合を大きくつくろうというところに止まっているかというと、そうではない。農民組合が弱くても、主体的に闘っている姿勢だけは崩さない。

 たとえば農業に肥料は欠かせない。しかし肥料をつくるには労働者は必要だが、肥料を支配する独占はいらないという論理を農民は承認する。だから、多様な階級闘争の構築に、決定的に役立つ前衛党が生まれるなら、日本帝国主義というのは社会主義革命の可能性の強いところだと思う。新潟のある農民は、北欧に遊びにいったとき、日本と比べて文化的な施設も貧弱だが、自分の家でバターもチーズもつくり、缶詰も自分の村の範囲でつくって、一年分ぐらい地下室に貯蔵している。それを見て、ああいうのが本当の暮しじゃねえかなと思ったと語っている。非常に多様ですよ、現在の農民の受取り方は。戦後一時期の農民にはストライキ反対の気分が強かったが、いまや息子や孫が労働者だから、非常に分りよくなっている。

プロ独裁は党の独裁か

 司会 松江さんに一つ質問がある。松江さんが冒頭で社会主義は民主主義の徹底だと言われた。ポノマリョフの最近出た訳書によると、彼もこのことを言っている。そして、それは社会主義的民主主義だという。で、社会主義的民主主義は労働者階級と勤労住民層の権力だという。これはプロレタリア独裁でしょ。そして、いまやわがソ連は全人民の権力になっていると彼はいう。だけどね、ソ連の党の〃独裁〃というのは、労働者階級の独裁というより党の独裁としか、ぼくには見えないんだ。そこで、統一労働者党の文書によると、民主主義の徹底を一方に書きながら、プロレタリアの独裁も書いてある。ここのところはどうなんだろう。

 松江 徹底した民主主義とは、文字どおりのプロレタリア独裁ということだ。

 司会 社会主義的民主主義ですか。

 松江 社会主義的民主主義などという言葉はレーニンはつかっていない。徹底した民主主義であって、それは文字どおリプロレタリア独裁であり、労働者人民が主人公になることだ。それに行きつくのは、各民族各社会によって違い、たとえばいま問題になっているポーランドにしても、ぼくらはあれを日本人のわれわれの期待感を尺度にして見たのでは正確ではないと思う。ポーランドにはポーランドの歴史があり、政治があり経済があり生活がある。ポーランドはポーランド人のやり方でその問題を解決するだろうし、中国は中国人のやり方で解決するだろうし、ソ連はどういうやり方か知らないがロシア人のやり方でその問題を解決するだろうし、また解決しなければならないだろう。ただ言えることは、日本のように完全に成熟している資本主義のなかで、日本がプロレタリア独裁、徹底した民主主義になるという場合には、少なくとも代行的なかたちでそれを党に委託するというかたちでは駄目だ。本当の意味で労働者人民が主人公になる、日本人は日本人のやり方で、発達した資本主義国の、しかも日本のやり方でなければ、それは完成できないであろうと思う。

徹底民主主義=プロ独

 司会 そうすると具体的な問題になるが、プロレタリア独裁という言葉の出し方は、われわれは日常具体的に行動しているわけだから、安易にふりまわすと、いま一般の大衆のなかにあるイメージは、スターリン的なものとかヒットラー独裁というように受取っているし、また政府や独占の側はそのように理解させようとつとめているわけだから、徹底した民主主義なんだという点を日常不断に宣伝する必要があると思う。安易にプロレタリア独裁を共産主義者の免罪符みたいに言うのは、よくないやり方だと思う。

 松江 ブルジョア的な支配が、いつのまにか〃独裁〃ということばを政治支配の形態の概念にしてしまった。それで、フランスの党なんかは、ファシズムを連想させるからということでプロ独裁を否定した。本来、プロレタリア独裁は、プロレタリアートが権力を他の階級と分有しないということだ。労働者階級の権力であり、それは文字どおり労働者階級が主人公になるということで、徹底した民主主義とはそれだと思う。しかも、それは日共がいうように、単に平板な労働者権力の解釈ではなくて、国家=権力=民主主義の死滅のためにこそ過渡的に必然的な存在としての「プロ独裁」である。徹底した民主主義は徹底し切ったときには、すでに眠りこんで必要でなくなるのだ。ぼくはそういうものとして、プロレタリア独裁という言葉を躊躇しないではっきりつかうべきだと思う。

 一柳 プロレタリア独裁というのは元来、ブルジョア民主主義という言葉が先にあって、ブルジョア民主主義の本質はブルジョア独裁じゃないかというのが一つあって、それに対してもっと深い民主主義はプロレタリア民主主義、プロレタリア独裁だ。独裁というのは、農民は被搾取階被かといえば、支配階級として同盟するわけだ。そういう苛烈な政治論争、階級闘争のなかでつくり上げてきた概念だ。マルクスはポコッと出すが、そんなにつっこんでない。

 司会 グラムシはブルジョアであろうとプロレタリアであろうと、国家は独裁だとはっきり言っている。ぼくもそのとおりだと思う。だけど、われわれが日常の政治行動、大衆活動をする場合に、いまのように誤って理解されがちな時に、日本共産党のようにプロレタリア独裁をディタツーラとか、執権とか今度はまた何とか、議会主義的に本来の意味を変更してゆくことはまちがいだと思うが、と同時に、松江さんのいうようにプロ独裁の精神を変える必要はないが、そこを大衆にわからせてゆくようにしないで、プロ独裁をかかげなければいかんというかたちでいくのも、これも一種のセクト主義ではないか。これからの新しい運動のなかで改めることではないか。

 松江 ロシア革命の時でも、それはことばや概念ではなく事実で闘いとってるわけで、それを理論化した場合に、そういうものとしてうけとっているわけだ。ついでに言えば、レーニンは、遅れたロシアでは革命は始めるのはやさしかったが、これからが大変だ。しかし、ヨーロッパでは始めるのは大変だが、始まればわれわれを追い越すだろう、と言っている。レーニンが言っているのは単なる革命のスピードの問題ではないと思う。多かれ少なかれ、同じ道を経由するのだが、いま提起している本当の意味のプロレタリア独裁、徹底した民主主義へゆきつく過程の問題として提起していると、ぼくは受取っている。

 山本 根本の問題は社会主義革命をやる場合に、人民がやる意志があって、その処理のために、レーニンの場合はロシア社会民主党、ボルシェビキ派に委せればよい、という方法でやらなければ革命は成功しない。下手すれば、ナチのように大衆が民族主義で沸いている時に、そういうかたちになってゆく。プロレタリア独裁というのは、社会主義のプログラムを遂行するには労働者階級以外にない、ということが前提となって言われている。独裁という言葉がついているものだから、言葉たくみにブルジョアジーは逆宣伝して、いかにもいまは民主主義で独裁になったら、ということがあると思う。社会主義建設の過程で、しばしば前衛が大きな誤りを犯した、スターリンの場合もそうだ。ポーランドのゴムルカ、目前の中国共産党。ソ連の国内でもしばしば官僚主義的な誤りがある。そういう内部の非プロレタリア的な傾向との闘いをやっているかどうかということを、われわれは見ていかなければならない。

 遊上 民主主義の徹底と独裁もふくめて発言するが、統一労働者党の方針書は民主主義が低められている。よう読んでごらん。

重要な職場の権利闘争

 椎名 民主主義の問題は労働組合運動の現場で一番問題になっている。労働者自身が示威と運動によって、どう現状を切り開いてゆくかが問題である。ぼくらの組合では職場が二つに別れるが、強いのは横の連絡だ。たとえば仕事や残業の割り振りまで、上から流れてくるものより労働者の横の連帯の方が強い。横の連絡というのは、お互いに話しあい、問題点を議論しあって、自分たちの職場だか、らというので、抵抗力のある職場は組合としては強い。労戦統一の問題やこれから直面する厳しい条件をふくめて、示威と運動でそれをどう社会主義につなげてゆくかということが問われている。

 柴山 われわれが社会主義のために闘っている相手は日本の独占ブルジョアジーだが、これは世界のブルジョアジーのなかでもきわめて悪賢くて本性は残忍なブルジョアジーの一つだと思う。戦前戦後を通じて世界資本主義でも稀な不均等発展を遂げてきたなかで、彼らは何度か直面した危機をたくみに切り抜けてきた。日本の共産主義者は、日本資本主義の急激な発展の過程で、情勢を的確につかみえないで絶えず混乱し、正確な日本資本主義分析にもとづく正しい革命戦略を打ち出せないで、後手後手にまわってきたし、現在もその状態は続いている。

そこにわれわれが前衛党再建を主張する根拠があると思う。現在もっとも大切なことは、そういう点での政治的、理論的ヘゲモニーを確立する努力と、共産主義諸集団内部の対話を組織することによって統一をかちとってゆく、そのイニシアチブを発揮できる能力をどうつくってゆ

くかということだ。

 荒川 プロレタリア独裁と民主主義の問題が論じられたが、現在概念の問題でも日本のマルクス主義戦線は混乱している。混乱していることを確認して、再追究していく必要がある。そういう意味で遊上さんが出された問題は具体的なテーマだった。

 松江 現代社会主義の問題としての徹底した民主主義、本当のプロレタリア独裁、労働者が主人公になるという道は、アスファルトで舗装された誰でも通れる平坦な大通りではなく、いろいろな道があると思う。世界革命への完成に向う過渡の問題として、その途上には誤りもあるし、失敗もあるし、異なった道もあるし、そういう問題としてとらえておかなければならない。われわれはわれわれなりに日本の道をどうつくるかということが問題だ。その場合に、職場において徹底した民主主義、労働者のヘゲモニーをめざして、どこまで闘いとるかということと合わせて、非常に重要なのは権利闘争である。職場の労働者は白けているとは言っても、金の問題もあるが、権利がじわじわとやられてゆくことについては、知らん顔をしているようでも、もの凄く敏感だ。闘う権利は、いまの日本で徹底した民主主義をめざしてまず闘いとっていかねばならぬ一番大事な問題である。ある意味で権利闘争とは、現在から未来への「徹底した民主主義」をつなぐ根幹の闘いであるともいえると思う。

 
表紙へ